「この本を読んだ感想を話してください」と生徒に語りかけた途端に、シーンとなってしまうことがある。なるべく先生と目を合わさないように・・じーっとしている。私にだけは、当てないように、と本心で願っている姿。 「絶対にしゃべらないぞ、答えないぞ、出来れば時間よ 過ぎてくれ」と思うことは、誰にでもある。しかし、得意なことや趣味のことになると、普段とは
“ひとが変わった”ように、ペラペラとしゃべりまくり 「
口が軽くなる」人がいるものだ。大人でもアルコールが入るとペラペラと話がとどまることなく、
“立て板に水”とばかりに 口が軽くなる。ちょっと“水”を向けた途端に長々と話に、付き合わされることになる経験をお持ちの方も多いと思う。この場合の“水”はただの“水”ではない魔力を秘めた液体のようである。語源としては、巫女(みこ)が霊魂を呼び出し、口よせをする時に、まず“水”を差し向けることに、この言葉は由来しているという。この“みず”をきっかけにして霊魂が話し出す、といわれている。この魔法の”水“が「感想を話してください」のときに、そっと生徒たちに”水“を含ませることができたら、苦労は・し・な・い。日本語を学ぶ 外国に繋がる子供たちに、語源の意味の深さを「直訳」しても伝わらないだろうと勝手に思ってしまう昨今。これは自分の語学力の無さが証明され、「
身から出た錆」だと痛感する。 が、ちょっと待てよ、この「
錆」って廃刀令が出された以降の時代には使えない言葉なのである。手入れをしない「刀身」の錆のことであるし、上手く感想を述べたからと言って、「
太鼓判を押す」ことは出来ないし、感想を話させないのは、「
相手の思うツボ」にはまってしまう。どんな
”ツボ“かと、考えている間に、授業終了の時間をみながら、もう感想を聞かないだろうと「
人の足元をみる」ような雰囲気で、学習道具をしまう準備で「
大わらわ」。漢字では「
大童」と書くような”超肥満児“を連想してしまい、いつまでも授業に係わっていると「先生・・
”もう看板ですよ」。と、どこから仕込んでくるのか「
折り紙つき」の優良生徒が、はやく終わらせようと「
一枚かんで」くる。こんな話しの語源が分からないなら、この世界から「
足を洗った」ほうがいいのかも知れないとつくづく思う。「金看板」だけでは通用しない日本語指導なのである。教える方も「
赤恥」をかかない様に「
味噌を付けない」ように「
火の車」で授業構成を「
遣り繰り」しているのである。追及されると答えに窮するので、「
胡散(うさん)臭い」ハナシとならないうちに「
打ち止め」にしよう。「
土壇場」まで追い込まれると、楽しい語源のはなしに「
水をさす」ことになる。うむむ、「
どたん場」って、罪人の首を切る所(ところ)のことって知っていましたか。
鈴ヶ森の刑場跡は、ここ大森からも近いので、是非とも見学にお出かけください。“首洗いの井戸”、も“磔つけ柱の跡”も残っていますよ。秋の夜長の散歩コースです。
(wataru君
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